働く、ということの根はどこにあるのか?
産業医のカウンセリングが終わった。心療内科へ受診する際の注意点と、今後の休職予定を話し合った。産業医からはただちに休職に入るよう注意(アドバイス)され、心身の疲労を1日でも早く癒すように言われた。
チームにも休む旨を伝えて了承を得、チームは引き継ぎに動く。私は休みに動く。家に帰ってきた私は、けっこうしんどい状況のためか、寝てしまい、夕方に起きてこの記事を書いている。
がんばってたんだな…。ぼんやりとした眼で天井を見ながら、そんなことを思う。
体は無理ができる。ゲームのように画面が止まることなく、体は動き続けることができる。休むことをしない限り、疲労はたまり続け、ふとしたところで生活に支障をきたす。
2019年、チームの人員が半減し、しかし売り上げは維持し続けるという大本営発表のもと、二階級特進し以来、指揮をとり続けた。他部署と衝突もしながらだったが、私は前線に立ち続けた。
3年か…。
私の管理職兼プレイヤーのこの3年間を、1,000日戦争と名付けることにした。やっと終戦ということだ。無条件降伏なのは歯がゆいけれど、耐え難きを耐え、忍び難きを忍んだ、そんな1,000日間だった。
働くということについて考えた3年間だったとも思う。入社してすぐは、インプットが多くそれなりに楽しかったと思う。ただし管理職となると話は別で、アウトプットの質と量で結果が決まってくる。いつの間にか、何がやりたかったのかも、忘れてしまった。自分の手を動かすより、他人の手の動かし方に一喜一憂しなければならなかった。
さて、働くということの根はどこにあるのでしょうか?
たぶん、働くって目的意識がものすごく重要で、生活のためとか、名誉のためとか、人のためとか、いろいろあるんだと思う。
自分のために働くということをどこかに置いてきてしまったのかもね。
根なし草になってしまった。
というより、種に戻った感覚がある。
たしかデジモンって負けたり、究極まで進化を終わらせるとタマゴに戻っちゃってたね。そんな感じ。
優しく水をあげようと思う。