黙劇プレゼンツ

ちょっぴりをたっぷり。

「戦争反対」や「核武装」に、「私」はいるのか。

 

 大規模な案件で多くの人を動かした結果、大変だったね、という声よりも「失敗だった」という声をもらった。

 「失敗・・・?」

 「稼働率があがって大変だったよ。もうああいう仕事はやめてほしい」

 じゃあ、あんたが7ケタ(100まんえん単位)の仕事もってこれんの?と言いそうになったが、私はこらえたというよりも、話していてもしょうがないな、と思った。

 仕事をしただけ、お金がもらえる、そんな当たり前がこの人はわからないんだろうな、とサラリーマン独特の沈澱した煮え切らなさが漂う発言に思わず鼻をつまみたくなった。確かに私だって、仕事をした分のお金がもらえるわけじゃない。たぶん残業代くらいだろう。それでもいまこの仕事をやることに、意味を見出そうと思ってやっている。

 

 レッテルは、他人が必ず貼ってくる。そう、私には「失敗」というレッテルを貼りに来たのだが、残念ながら、結果は「失敗」とは限らない。この不景気なご時世、仕事があるだけありがたいとは思わないのだろうか。仕事があるだけで成功だと思うのは間違っているんだろうか。

 

 ウクライナのことについて、日々更新される内容は、ツイッターやネットニュース、会社のテレビで否応なく流れ込んでくる。

 考えられることは、なんだろう?

 話はいつも政治的なことになって、よくわからくなる。

 戦争反対・・・ よくわかる。戦争なんかやっちゃいけない。

 核武装・・・・ そういう選択肢で国際情勢が動いていることもある。どうして必要か、またはどうして不要かを全く考えないのはナンセンスだと思う。

 

 

 感情でこのウクライナのことを言葉にすることができない。勇気がないのかもしれない。それならそれでいい。

 

 ただ、ウクライナ人でもロシア人でも、戦地で、冷たくなった死体を横目に「生きなきゃ」と思っている人たちのことを考えてしまう。銃が自分の体温になるまで握りしめている人たちのことを。

 

 誰かの言葉に、私はいない気がする。生きている実感を共有するときに、私は共感するんだと思う。

 

 そんなとき、言葉とそれを見ている私はどこにいるんだろう?