愛飲していたのは、マルボロゴールド。ライターはいつも白か黄色で、マルボロゴールドのパッケージにぴったりな配色で箱の上に重ねて置くのが決まりだった。
煙草に憧れていたのは名だたる文化人たちがモクモクと吸ってる光景がイメージとしてあって、それに憧れたものだった。と思う。
煙草には煙に巻くというように、隠れ蓑をまとうような、自己防衛的な側面があったのかもしれない。
坂本龍一を(今も)リスペクトし、マルボロゴールドを吸っていた。この煙草はちょうどいいタールとニコチンの量で、愛煙家からすれば「軽い」煙草だ。そのくせゴールドという名前から価値があるような気がしていた。
禁煙という言葉は、愛煙家からすれば失笑にも満たない軽蔑されるべき言葉であって、口にするにも恥ずかしい、丸くなった言葉だ。禁煙する理由は人それぞれであって、どれも「自分」や「個」がないような気がしていて、私は嫌厭していた。嫌煙ではなく。
しかし禁煙という、大それた目標を掲げるようなこともなく、私は煙草を吸わなくなってしまった。めんどくさいというか、いつの間にか吸わずに過ごして久しぶりに吸ったところで満足を得られなかったからだった。
これまでに煙草が美味しい瞬間はたくさんあった。だけど、吸わなかったところで何も変わらないということに気づいてしまった。
生活の色使いとして、つまり生活の節々に慣例的になって吸っていたことに魅力をあまり感じなくなってしまった。煙草を吸いたいという欲望よりも、ここで吸える、ここなら吸えるというポイントで火をつけていただけだった。
禁煙をしろ!と言ってくる人はけっこう狂ってると思う。これはお酒を飲むな!とかお茶を飲むな!と言っているのと同じように健康を気遣って言ってくれるのだけど、煙草を吸う人からは狂ってるとしか思えない。なんで、あなたが決めるんですか、と。
私はなんとなく煙草を吸うことをやめしまった。吸いたくなるときもたまにあるけど、ちょっと深呼吸すればまあいいやとなってしまった。
俯瞰する「個」を意識しすぎているのかもしれない。
他者と煙の、禁煙狂詩曲だなと思った。