黙劇プレゼンツ

ちょっぴりをたっぷり。

らきすた的精神とは。らきすたの抽象的ファクタ考。

 

らきすたというアニメがある。知っている人は知っている、萌えアニメとか日常アニメと言われる。京都アニメーション作品でいえば、けいおんハルヒの前作ともなる作品。

 

らきすたってただの萌えアニメじゃないの?

という声が聞こえますが、いやその通りなんですけど、らきすたには他のアニメ作品にはない抽象的な何かがある気がして、そのファクターを考えてみようという試みです。

 

①キャラデザ

頭身が3〜4頭身でリアル<キャラクターという印象を受ける。萌えアニメの筆頭でもこの頭身サイズを採用しているのは最近ではけものフレンズくらいで、実はなかなかない。けいおんでも5〜6頭身。それに90年代的な目の大きさが顕著で、これはあずまんが大王(ほどではないが)に近いものがある。またセーラー服をキャラクター化している。学園モノというイメージをセーラー服とつなげている。それはOPを見れば明らかです。

 

②パロディー、それがオタク的思考

主人公の「こなた」はいわゆるオタクで、アニメや漫画作品からの元ネタで定型的なアプローチをコミュニケーションの中で発揮している。たとえばかがみがショートカットにした想定をしたときツンデレはそういうものじゃないと否定したエピソードがある。それに「かがみ」がツッコミを入れることで日常とオタク的思考を現実化している。さらに「つかさ」のオタクでもまとまなツッコミでもない気がついたことを指摘し、やりとりが多重化するおもしろさがある。「つかさ」の存在がただの萌えアニメでなく日常アニメへ誘導していることがわかる。他のアニメにはあまりないが、ケロロ軍曹などのパロディーを展開しがちな作品と親和性がある。

 

③大人たちの自由さ

教師、警察官、そして自由業の父親、みんな謎のフリーダム感があって緊張感がない。教師はオンラインゲームをしてこなたとやりとりをしているし、警察官は宿題を教えることができず峠道でかっ飛ばしてイニシャル●のような描写を見せ、自由業の父親は体育祭でカメラを激写して学校につかまってしまうなど、大人の威厳はほぼない。がんじがらめの大人の描写はいっさいなく、子供と接するときの無邪気な大人の描写のみである。あえてその大人の無邪気さだけを描写するのは物語の深刻さを削ぎ落としている。

 

④どうでもいい会話

根も葉もないが、会話が物語を進める上で効果をもたない。これは日常アニメの特徴で、あまり意味をもたない。が、聞いていて楽しい。ストーリーを進めるよりもおもしろさやおかしさを優先した会話劇は何も考えず楽しめる。意味がないことに意味を見出しているのかもしれない。考えすぎかもしれない。

 

⑤とにかくふわふわしている

わかりやすい例でいえば「けいおん」では「ふわふわティータイム」という曲があるように、「けいおん」劇中で放課後に紅茶を飲んでふわふわしている。女子高校生の意味のないやりとりや会話を昇華させてリアルな受験などの問題もギャグやイベントの一環で楽しめるようになっている。私たちが考える深刻なことは、そもそもあまり意味のないことなのかもしれないとまで思えるような、どうでも良さをうかがえる。どうなっても話は続くし、らきすたではギャグに収束される。

 

 

ここまで書いてきてなんでらきすたを見た後にすべてどうでもよくなるのかあまりわからないけれど、深刻さのようなドラマがすべて単調なギャグになりうるということなのかもしれない。

私たちが思う深刻なこととはなんだろう?と考えるきっかけを与えてくれるだけで、

ずいぶん心が楽になるのは私だけでしょうか。

 

らきすた、それは抽象的に物事を捉えることを教えてくれているのかもしれません。

 

そういえば、らき★すたと表記するんですよね。

この★のなんにも考えてない感じね…笑