黙劇プレゼンツ

ちょっぴりをたっぷり。

物語と向き合うことは、苦しい。だけど、

 

 物語と向き合ったことがあるだろうか。そうじゃないにしても、物語を作ったことがあるだろうか。

 物語を作るときに思うのは、登場人物がどう動いていくか、どう動くべきかというのを考える。そしてシーンはどうなるか、どういう風景があるか、どういう心象があるか、そういうものを織り交ぜていく。それに、この作品で何をしたいか、何を伝えたいのか、そういうものも必要になっていく。どう作るかは人によるから、一概には言えないけれど、まあそういう感じだ。

 

 物語を作るのが、うまい人がいる。脚本がいい、と言われるのはこういう人たちなんだろうね。セリフや挙動、芝居なんかと、構成のダイナミズムに舌鼓を打ちたくなるような。

 物語がない、というのもある。物語がある作品とない作品があるとすれば、どういう作品を思い浮かべるだろうか。まあそういうのもあるよね。アートとかって、説明がないからわかりにくいのでなくて、物語がないことが、分かりにくさにつながっているんじゃないかな、とも思う。

 

 物語を作っているとき、じつは、作っている私自体、どうなるかわからない。最初からオチを決める作り方もあるけれど、私は物語と並行して作っていく。並行して作っていくとは、なんだろう。

 チュウニ病かもしれないけど、並行世界を作っている感じがする。じぶんが物語の世界をコントロールしている実感はなくて、物語の世界にとって、私は観測者でしかない。

 

 カメラを構える。何かが動く。

 

 それらを描写していく。しかしこれは根気のいることで、物語の並行世界は、一度目を話すとすぐに霞んでいく。見にくくなる。カメラのピントをもう一度合わす。描写をもう一度始める。この向き合うってことが、必要になる。描いている間は、見ることができないから。

 

 これを続けていると苦しい。べつにしなくても死なないけど、しないと生きている意味がないような気もしてしまうから、これはやめられない。やめてもいいけど、ここはプライドみたいなマグマに聞いてみないといけない。

 

 苦しさは、完成したときに、一抹の安堵ともにジワっとくるものがある。そしていろんな人にこの物語の感想をもらったとき、ああ、この物語は存在したんだ、とやっと実感する。

 

 存在を、確かめるんだ。