書き続ける、ということ。
黙劇です。年の瀬で、いろんな人に会って、やや疲れていて、少し時間ができるとネットの海に潜りがちです。
休みに入った寝ぼけた頭で、ツイッターのタイムラインを見ていると、環和来さんの「書き続ける意義」という、エッセイを見た。
"文章を私が書き続けたところで一体それが何になるというのか。私の紡ぐ言葉は誰かが既に紡いだ言葉だ。"
引用元 環和来「書き続ける意義」 https://slib.net/110077
落胆から始まるこのエッセイは、書くことの無意味さを分かりながら、「それでも書く」とつぶやくように唱え、それでも、と音が反復するエコーのような終わり方をする。
書くというのは、たとえば読書感想文のような、きわめて作業的で修行的な側面もある。埋まらない原稿用紙のマス目が、鉄格子のように見えてくるあの瞬間のことだと、分かる。
続けるということは、難しい。続けていくには時間が必要だし、続けていなかった時間によって、ハードルがどんどん上がっていく。私はコロナ禍で、ちょっと音楽をかじってやろうと、電子ピアノとエレキギターに手を出したが、今やホコリと『仲良し』になっている。
続けている、という感覚って大事だなあと思う。「やめた」と思えば、もう終わりになる。その宣言は、自分を言い聞かせるカタチになって、納得をもたらす。私は、2021年のやめたものに、たぶん電子ピアノとエレキギターが入る。音をじぶんで発してみるということについて、やめよう、となっている。過去の憧れよりも、今の感覚を優先させている。
世の中に「やる気スイッチ」があるらしいけれど、「やめるスイッチ」もあると思う。これが入ったら最後、やめるスイッチが「off」になることはまずない。永遠の別れとなる。
私の祖母は、老後、音楽を楽しみたかったらしく、世界の名曲集というレコードアルバムを持っていた。レコードのアルバムなので、何枚ものレコードが箱に入っているというような、いかつい体積を持っている。しかし医療事故によって帰らぬ人となってしまった。私はその話を聞いて、レコードプレイヤーを買ってきて、家族と何枚か聴いたことがあった。
やめることが、今の後悔にならなければ、早々とやめてしまうのか、1番だと思う。
だけれど、一滴でも後悔してしまいそうなら、どんなに時が経っても続けるのがいいと思う。
続けていると、過去の自分ができてくる。できなかった自分、何かできた自分、そんな多重な、自分の地層に指を這わせるような、愛おしい時間がある。
そしてこの時間は続けていなければできないことに、今気づく。