黙劇プレゼンツ

ちょっぴりをたっぷり。

「ほしい」とリスクと満足

 ほしいものがある。

 そういうとき、どうやったら手に入れられるだろうかと、頭の中に雲が広がっていくように手立てを考える。貪欲だなあと思いつつ、そうやって「ほしい」を広げて行くと、結局のところ、いつのまにかリスクを考えている。リスクは嫌なもので、最悪の場合だとかも考える。だんだんつまらなくなって、夢、ということでひとまず保留しておく。月日が経って、「ああそんなことも思ってたっけな」と過去を茶化して、何もなかったことにする。

 自分の「ほしい」とリスクを天秤にかけて、いつもリスクを取ってしまっている気がする。

 たとえば車とか、ローンで買える。支払いは10年後までになる。

 「10年間も車に払い続けるのか」と嫌になってくる。自分の人生の時間を切って捨てているようで、ちょっとためらう。

 で、リスクを考えたところで「ほしい」って気持ちは消えないから、だんだんイライラしてくる。何もせず、ただ「ほしいなあ」ってぼやいて、イライラ。

 それでまた、イライラが続くものだから、気が滅入ってくる。生活のパフォーマンスがにぶくなる。「なんのために働いてるんだろう。ほしいものも買えないのに」なんて思いながら「おはようございます」とか言ってる。

 仏教じゃないけれど、「ほしい」って感情を消すのが、イライラを解消する方法として有効だなあと思う。「ほしい」がなければリスクもないし、イライラもしない。

 でも、ほしいものは、ほしいよ。とだだをこねてみる。諦めないでいてみる。

 「ほしい」ものがあったら、どうすれば手に入れられるか考えるよりも、手に入れたと仮定した自分を考えてみる。今、もう手に入れたぞ、と妄想してみる。そうすると、手にいれたときの感情とか、経済状況を逆算する。で、今何が必要か考えてみる。

 「ほしい」って思っているときって、だいたい、考えがぶっ飛んでると思う。ちょっとその「ほしい」を整理する必要がある。手に入れたいときは。

 ここまで諦めない手立てを考えてきたけど、ふと「今で満足じゃん」と考えると、かなり気が楽になるよね。「これでいいのだ」じゃないけれど、充足さや満足もなかなか麻薬な考え方だなあと思う。

 わたしはいてもたってもいられない不満足さをエネルギーにして何かをしようとするから、どちらかというと、諦めの悪い方なんじゃないかな、と思う。でもだんだん、「今で満足」しておかないとなあとも思ってる。

 そういう折り合いをつけていくのも、生きて行くことなのかもしれない。

 「やめてきたこと」を思い出すのも、こういうことを考えるときだよね。