他人の不幸は蜜の味、というフレーズをよく聞く。
仕事で失敗したとか、誰かを悲しませたとか、そういう話は、他人にとって蜜を舐めたような、おいしい味がするんだろう。
たまたま私は職場で自分が仕事の中で怒られた話をした。少し愚痴に近かったのだけど、あの人にこう怒られちゃいましたよ!笑といった具合である。
私は、自虐を得意としている(自虐)ので、軽口として言えてしまう。口から出たのはあっさりとした自虐であり、私の後ろめたさは全くない。怒られたけれど、うまくやっている、そんなこともあった、という程度のものだ。
たまたまそれを聞いていた人がニヤニヤとしていた。私は「ウケている」とその瞬間は理解したのだが、「怒られたんだ」という自尊心から見下ろす、ある一種の侮蔑が含んでいたことに気づくのだった。それはそれは後味の悪い気持ちだった。
そうだよ、他人の不幸は蜜の味だものね、と理解した。
─── 閑 話 休 題 ───
帰宅して魚を焼き、みそ汁を混ぜながらツイッターを見ると、他人の不幸がたくさんある。
それはブログにもされているし、社会問題として取り上げられ、社会学者なんかが取ってつけたように解説をする。
風俗で働いたことがあるとか、親にこういうことをされたとか、ひどい友人がいたとか、これらは、本当に、おもしろいのだろうか?
カラッと笑える話なのだろうか?
それを話す自分たちに、なにか光のようなものが見えるのだろうか?
光じゃなくてもいい、何かエネルギーのような、自分をなんとかする衝動みたいなものが、その不幸によって生まれたのだろうか?
他人の不幸は、他人の不幸な話だ。
蜜の味がするという他人への期待感は、違う。
不幸は不幸として、笑い飛ばさなければならないはずだ。
私は、自分で不幸を話して、蜜の味を感じられたときの気持ち悪さと、他人の不幸を聞いたときの「蜜なんていうほどおいしくないよ」ということを、言いたい。