交通事故がだれにでも起こりうるように、精神もいつ病むか分からない。
仕事は、とてもエネルギッシュさを求められる。
ディレクションの業務は、私が指示をしない限り、石のように全く動かない。
プロジェクトが大きければ大きいほど、石を動かすのは至難の技だ。だから役割分担して、石を動かす人、円滑剤を撒く人、石の動く方向を指示する人、石を動かせる機械を手配する人・・・。
というふうに、みんなで石を動かす。動かすときには相互にコミュニケーションが必要で、ああでもないこうでもないと言い合いながら、動かす。
しかし、精神を病んだ人というのは、その動かすためのコミュニケーションが、なかなかできない。これは本人としても不本意だろうし、つらいものだとおもうが、目の前に仕事がある以上、うまくやらなければいけない。
私は、コミュニケーションをとる。病んだその人のミスも寛大に慰め、他のメンバーと調整し、頭を下げながら、やれることをやる。
ふとしたときに、その病んだ人から、私のミスを責められる。落胆と、嘆きと、感情が入り混じった、とても閉鎖的な表情で、言葉を投げつけてくる。
人はミスするものだ、という当たり前の前提をすっ飛ばして、「健常者なんだからちゃんとやれよ」といった具合だ。
私は素直に謝る。申し訳ない、至らなかったです。
病んだ人は、私の元上司だった。引き継ぎを経て元上司の担当プロジェクトは私になった。元上司は、第一線を離れ、病んだこともあり庶務に徹している。
私が謝罪したあと、元上司は「もう嫌だ!」と言って事務室を離れる。
取り残されて立ちっぱなしの私と、その周りで仕事中の社員が横目で見る。私を、というよりは、病んだ人が放った感情にびっくりしている様子で、私の表情を伺い見る感じだった。
こっちが言いたいよ、と心底思い、肩がガクッと落ちた。
その人の身の置き場を与えるために奔走した私は、なんだったんだろう…?と混乱した。
自分からコミュニケーションがとれないから、オペレーションに徹する、でも経験はあるから口出しをして、その度に感情的になる、そんな人材は、はたしてどうなのだろうか…?と疑問に思った。
病んだ人にだって、働く権利はある。だけどその権利を保証しなければいけないのは、まわりの他称の健常者たちなのだ。
健常者は、気遣いができて我慢できて、完璧に物事をこなせる・・・わけないでしょ。
健常者だっていつ病むか分からない。車がいつ突っ込んでくるか分からない交差点にいるのと同じだ。
今はなんとなく、病んだ人か健常者か、という二択で人が振り分けられている。
病人という認定は病院で行われる。薬をもらい、無機質な助言を抱えて、仕事に復帰する。そうしないと、社会が成り立たないのもわかるのだが、病気になった人が病人に振り分けられるのと同じように、その他の人が聖なる健常者に完全に振り分けられるのも、どうかと思うのだ。
これは、女性か男性か、という振り分け方しかない状況と似ている。
「理解をしましょう」
とあるNPO法人の、病んだ人を支援する団体が主催する講習を受けた時に、プロジェクターにはそう書いてあった。狭い会議室に社員がイスを並べ、そのプロジェクターに投影された虚しいゴシックの文字列を、みんなが見る。
どこまでが理解なのかは、わからない。
だけど、病んだ人の感情に当てられた健常者は…?
この傷は誰が癒してくれるのだろう?
これも仕事の内なのか…?とぼやきながら日々を送っている。