黙劇プレゼンツ

ちょっぴりをたっぷり。

心地よい呼吸を求めて・針生 想 解説「缶をあけるとき」

 

 しばらく彼の作品に触れないうちに、黙劇さんは作品作りの拠点を手に入れたように思う。そこで見た景色や空気、街を行く人達の質感を背景に構えたい、そんな野心が作品の中に流れているのが垣間見えたからだ。今作「缶をあける時」ではカメラのレンズの存在を頻繁に感じ、人物たちの細かい仕草を逃したくない、そんな筆致で前中盤は飾られていた。

 例えるなら一本の短編映画を見ているような読書感覚だったのだけど、この一本の物語を頭の中で再生させている内に一つのキーワードが浮かび上がった。「呼吸」だ。息苦しい世の中、と言葉で表してみる時、例えば私達が世の中のしきたりやなんだに押し黙る時、私達は「呼吸」を制限されている。喫煙者とはそんな空気の悪い中、海中で用いるシュノーケルみたいに、別の方法で空気を肺に入れることを選んだ人々のように思える。

 そんな息苦しさに疲れ切った金羽ことシャチは、仲間のラクダとツーリングしたり、祖父母の営むカフェ併設の本屋で前作「ギリシャの祝杯」にも登場する須布院と出会い、彼女本来が持つ自然な感情が取り戻されていく。だがようやく一「呼吸」つける憩いの場を見つけられた矢先、シャチは火事によって父を亡くしてしまう。閉塞感に包まれ、人間不信に陥った男の放った炎によって、 シャチの父親は「呼吸」困難で命を落としてしまう。

 そう直接的には書かれていないが、この物語の背景にある世界観とは「一人一人が快適に暮らせるだけの十分な呼吸が行き渡らない、酷く酸素の乏しい世界」なのだと思う。

 

4 年前に黙劇さんに私の小説を読んで感想をもらった時、何気なく書いた海の中のシーンについて、彼は疑問を投げかけてきた。「なぜ海なのか。山で木の実を採ったり仲間達と暮らすのではなく、なぜ海に走り出してしまったのか」

 海に対し不思議な情熱を黙劇さんは抱いていた。それが前作「ギリシャの祝杯」で須布院が持つ自由な雰囲気となって表れた。そして須布院を通して見据えた海、自由な呼吸への憧れを自覚し、 今作で黙劇さんは旅に出たように思う。奇しくもそれは二人の女達のゆったりとした旅路と重なっていく。自分本来の呼吸ができる場所を探し求め、陸地に暮らす一頭のシャチ。それを引き連れるのはオアシスを求める一頭のラクダ。

 缶チューハイを飲みながら、今もどこかで誰かの呼吸が奪われているこの乏しい世界で、二人と黙劇さんは心地よい呼吸を探し、きっと旅に出ているのだ。

 

  (針生 想)