黙劇プレゼンツ

ちょっぴりをたっぷり。

また煙草が吸いたくなった・斗掻ウカ 解説「缶をあけるとき」

 

 つかみどころがない。まるで煙のように、ゆらゆらと。 読後、ほんのりと残り香を漂わせて、この作品は僕のみぞおちの浅い部分にしっとりとした淡い熱を落としていった。 缶をあけるとき。というタイトルは、言い得て妙だ。はじめに「缶」という文字を見たときに、僕はとても閉鎖的なイメージを持った。きっとこの作品は、何か鬱屈とした感情をテーマに書かれた、どちらかと言えば“閉じた作品”なのだろうな、と。勝手に思い込んで読み始めた。実際に、主人公の金羽(シャチ)もラクダも、その二人の人間性や関係性も、それを取り巻く世間も、自由 という概念を知らないのか!と思うくらいに内側へ内側へと僕を導いていった。 金羽もラクダも、それぞれの缶の中で生きている。それは当人からすれば居心地の良い世界。誰にも影響を受けず、誰にも影響を及ぼさない。そんな平和で平坦な世界。

「まるで、今の僕そのものじゃないか」

 そう思った。けど、きっと僕だけじゃないはずだ。日本人というのはシャイだと、ガイコクジンからよく言われる。それはシャチやラクダのように、良い意味にも悪い意味にも捉えられる。シャイという言葉の中には「閉鎖的」という意味も含まれるだろう。つまり「缶」ということだ。この“缶覚”は、たぶん 日本人にしか分からない“わびさび”のようなものだと思う。僕ら日本人は缶の中が落ち着くし、ガラパゴスな文化を好む種族だ。ただ、この作品を読んで る途中、金羽やラクダ、つまるところの「僕」に言いたいことが頭に浮かんだ。

「フタを開けろ」

 その一言。しかしながら、このフタってやつは自力ではなかなか開けられない。指一本で開くはずなのに、何年も何十年も開けられずに缶の中で生きている人はとても多い。だからこそ、人には物語が必要なのだと、僕は思う。何も起きない日常の隙間に、電話の着信のようにいきなり入り込んできて、気がつけば感情を一瞬、疾走させる。そんな刹那的なキッカケを与えてくれるのが物語なのだ。それはこの作品にも言えること。閉鎖的な世界から、呼吸をするために自らフタを開け、息をするための起爆装置。━━最後のシーン。彼女が全速で超えたかったものは、きっと彼女自身には分からない。分からないけれど、きっとあの時、少しだけフタが開いて、新しい空気を吸えたのではないだろうか。

 

  (斗掻ウカ)