黙劇プレゼンツ

ちょっぴりをたっぷり。

他人の言う、人生経験

 

 人生経験が足りない。これは人生をたっぷり経験した人から度々言われることなのだが、人生経験とやらは、何なのだろうか。そして、よく言われる人生経験とは必要なのだろうか。

 

 

 

 そりゃあ、四十年〜五十年生きている人と、私のように二十数年生きている人とでは、見てきた光景、体感したこと、考えてきたことの情報量は明らかに違いがある。つらいこともあったでしょう、たのしいこともあったでしょう。

 

 これからの死ぬまでの時間を考えたときに、傲慢にも「私にはこれくらいあと人生の時間があるのだから、今経験がなくってもいいじゃないか」とおもってしまう。

 

 経験とは、感覚的にみれば、じぶんしか経験できない。そこで見つけた原理原則は貴重だ。人に伝えたくなるのはわかる。こういうことがあって、だからこうしたのだが、こうなってしまった、このときこうすればよかった。

 

 残念ながら、そうして語られる他人の経験を私が経験するとは限らない。戦時中は味噌をおかずしたと言う。今後日本が戦争する場合を除いて、わたしは味噌をおかずにすることはないのである。おそらく、十年後もマクドナルドのポテトをおかずにダブルチーズバーガーをかじっているだろう。いや、フィレオフィッシュかもしれない。

 

 余命半年と宣告されて、二十才で闘病する人がいる。その人にも人生経験が不足していると言い切れるのだろうか。闘病によって得られた人間関係や考え方は否定しないが、その人生経験が私に当てはまるのか、よくわからない。

 

 「私にはこれくらいあと人生の時間があるのだから、今経験がなくってもいいじゃないか」と書いたが、明日交通事故で死ぬかもしれない。命の長さを決められない以上、他人の人生の尺度に合わせて人生経験なんてやってられるのだろうか。

 

 人生経験が共有されるとき、それは語られるときだ。会話のなかで、語り合うときに効果を発揮する。「へー、そうだったんだ」と。これはおもしろい。水槽の中の魚を見るように、人生経験を覗き見ることができる。

 

 しかし、じぶんとはある意味関係ない。他人の人生経験がじぶんの人生に起こるかわからない。

 

 ※

 

 さて、人生経験をたくさんした方がいいものなのだろうか。ここまで考えてきたので、愚問感がすごい。


 人生経験という時間の尺度が、なんだかバカらしい。毎日なにかしらして、それが人生経験になるのだから、たくさんも少ないもないのかもしれない。

 

 ツイッターに投稿したアンケートでは、「どちらともいえない」が多数で、次に「(たくさんした方が)良い」という結果だった。

 

 

 他人へ「人生経験が足りない」と言ってしまうのは、じぶん自身の老い(過去)のプライドと、他人がこれから人生経験していくことを想像できていないのかもしれない。

 

 

 

人間には本来的には原型がない。

寺山修司「本工の論理としての近代市民社会」『’70 寺山修司』世界書院)