ひとりの時間をもっとゆっくりに
──── 人の基本的な土台には「さみしさ」がある。
(糸井重里)
1週間が終わり、ホッとした勢いで真っ赤なワインを飲んでいる。
度重なる予定変更に疲れ、仕事に向き合うだけで嫌気がさしている。
言い出すと切りがない。あの感染症の名前を言う気力もない。
情熱とか、やりがいとかそういうものを依り代にしながら、やっているつもりだったけれど、気力が詰まってくるとそういうものすら忘れたくなる。
人から言われることをやればいい。しかしそれが並行して、進んだり進まなかったり、謝ったり、相談したり、気を使ったりで参ってくる。
肉体はひとつしかない。脳も肉体には1つしか付いていない。残念なことに!
スーパーで買った肉やら魚やらを冷蔵庫に投げ入れる。
外国産の甘ったるいチョコレートの甘さに、ワインの渋みが刺激する。フランス産のワインは総じてフルボディが多く、水っ気と酸味の軽やかさで「飲みやすい」と評判のチリワインとは一線を画く。厳しさがある。
そう、厳しさはいつもある。状況はいつも厳しさに満ちていて、「なんとなく」なんてものは通用せず、油断した分だけ状況は悪くなる。楽しさははるか昔に置いてきてしまった気がする。
どんな音楽も耳に入らない。ジャズをきいてみる。自由な風みたいなものが連続する。歌詞のないものがいい。乱雑に続くピアノ、叩き続けられるドラム、トランペットの間抜けな音。
バカらしくてプールから上がる水泳選手のようにヘッドフォンを外す。
音楽を捨てよ、町へ出よう。
となり町まで散歩をする。駅をひとつ歩く程度だ。音楽もスマホも持ち歩かず、町の音を聞く、動いていくアスファルトを見る。ポケットにはいつかのお釣りの100円玉。街灯が光っている。
夜は基本的に人がいない。仕事で関わる連中も、かかってくる電話も。
思えば電車に長時間乗るのが好きだった。ぼーっとして、着く駅のことを忘れて、背もたれに体重を乗せて、窓の外を見て、各駅の町を想像する。途中でそんな想像も飽きてきて、ほんとうにぼーっとする。
しばらく歩いていたら、コンビニから出てきた大学生が自分の自転車に乗って、ゆっくり、ゆっくり漕いでいく。急いでいない。チェーンの重さに足を任せて、タイヤが転がってゆく。
そのゆっくりさに、なぜか感動する。二人乗りをして楽しいわけでも、音楽をききながらノリノリなわけでもない。これから楽しいことがあるわけでもない。そういうゆっくりさだった。焼き芋屋さんが来た時の音、学校の放課後のチャイムのような、そういうゆったりとした光景だった。
たしかに人の土台は「さみしさ」なのかもしれない。その「さみしさ」は、たぶん誰かがいないとか、信頼されないとか、仕事ができないとか、面目が立たないとか最初はそういう「さみしさ」なのかもしれない。自然と焦る。次を考える。計画を立てる。管理する。ずーっとその感覚だと、だんだん厳しくなってくる。自分に対しても、他人に対しても。
仕事をしていると、ほとんどの時間を人のことを考えたり、関わらなきゃいけないから、ひとりの時間くらい、もっと大切にして、ゆっくりしてあげたいと思う。