黙劇プレゼンツ

ちょっぴりをたっぷり。

バッターボックスは1つしかない。

 

 とある会議で激論が交わされた。激論といっても、会議の遅延を追求する側と、それに対して釈明する側の小さな小さな激論である。

 参加者が問う。「なぜこんな重要な会議がこんな時期になったのですか!?」

 釈明する側が激情する。「いろいろ理由があったんですよ!!」

 わたしはとあるチームの管理者(マネージャー)になったので、幹部会議のような、そうでないような、中間管理職の会議に出ているわけだが、この口論を目にしてすさまじく帰りたくなった。お布団があったら入りたかった。

 重要な会議が遅延したことは、みんなわかっていた。人が辞め、そのフォローに追われるなか期末がきて、管理者も現場もボロボロだったからだった。

 しかし、この会議の遅延こそがわたしたちをボロボロにしてくれたんじゃないのか?という疑問と、何を原因として、また誰を敵にすればいいかわからない状況の中、イライラが向けられたようだった。

 わたしは誰の肩をもつ気はないけれど、この議論で追求される側が1人だったことが記憶に残っている。追求されたとき、「理由のひとつはですね…」と話を具体的にする人がいたってよかったと思う。助け舟を出し、話を具体的にして、説明する方向にもっていく。抽象的ことば、たとえば「忙しい」で他人を説得することは、少なくてもパブリックでは通用しないことが多いように。

 しかしマイクは追求される側に1つしかない。わたしの席からは遠い。

 

 野球のバッターは、バッターボックスに立つ。ボールを打てるのは、ひとつのバットでしかできない。そして立つことができるのは、バッターボックスにただ一人だけだ。

 なんて、残酷なんだろう。世の中ではチームプロジェクトとかチームワークとか、そういう「仲間」の意味の言葉を乱用しながら、なにかあれば、バッターボックスに立って、不慣れな構えをして、「打ち返す」ことをしなければならない。そうじゃないと、「チーム」に申し訳が立たないのだ。

 バッターボックスは1つしかない。チームメイトが入ることはできない。親でも、友達でも、わたしたちが立つバッターボックスはただ一人しか入ることができず、そのただひとりというのは、まぎれもない、自分自身なのだ。

 

 じゃあチームはなにもしなくていいのか、とさえ思ったけれど、スポーツには作戦がある。

 その作戦とやらで、バッターボックスが墓穴となるか、表彰台となるのかが決まりそうだなー、と。