黙劇プレゼンツ

ちょっぴりをたっぷり。

大人の前提

 

BULLY」(2001)という映画で、子どもたちが人殺しをすることで、一気に「おふざけ」から「犯罪」になる過程を見た。それはとても、子どもにとっては残酷だし、大人にとっては当たり前のことだった。子どもという存在が、大人によって保障されている何かに過ぎなかった。

大人とか子どもとか、そういうことを考え直すきっかけになったと思う。

 

大人になる最高のメリットとして、自分のルールみたいなものができてくる。

フワフワの、よくわからない状況から、これはこういうもんだ、という予想がついてくる。

物事が簡単に思えるし、スムーズになっていく。たとえば、切符の買いかたを知らなかった幼いころより、スムーズに改札を通っているはず。

じぶんの前提ができてくる。それは成長ともいうのかもしれないし、慣れともいうのかもしれない。つまらないとかおもしろかは、置いておいて。

 

働いていると、いろんな前提を持った大人がいる。自分だけが特別なんて思ってる大人はゴマンといるし、強烈な我欲を持っている人もいる、優柔不断な人もいる。

 

そんなじぶんの前提を持ってきた人たちが集まる社会で必要とされたのは、今、というか現代に使いされた「コミュニケーション」がある。相手の前提を傷つけず、交渉するチカラ。たまには譲ったり、譲られたりしながら、物事が決まっていく。調和を身につけていくんだろう。

 

そんな調和もままならないとき、それは大人の争いというやつだ。なんて醜いんだろうと思ってしまう。なんでなんだろう?

 

母と父が言い争いをしているとき、私はよく耳を塞いでいた気がする。私は母も父も愛していたと思うし、だからこそそんな光景を見たくなかった。それに、立派なはずの大人がこんな言い争いをしていて格好悪いとも思っていた。

 

大人のことを、「ただの大きくなった子ども」と言うときがある。たしかに精神は子どものときとなんら変っちゃいない。羽化とか、大きくなったとか、きれいになったとか、そういうのは見ることができない。見えるのは身長がのびたとか、老けたとかそれくらい。

 

心を見せるためには、言葉と振る舞いがある。言葉だけだと、それはそれで伝わらないし、能書きとか言われてしまう。振る舞いだけだと、一部の近い人にしか伝わらない。

 

 

大人は、たくさんの前提を得てきた。さて、どう調和させようか。

前提だけの会話は、どこか悲しい。過去を生きているみたいで。

 

 

調味料のない料理は、なんだか味気ないものね。