便利ツール(iPadなど)を使う vs.使わない勢 …これってなんなのだろう?
「企画や資料は全部iPadですね」
広告マンはこう言い放った。目の前には紙のレポート用紙にメモをとるわたしがいるのだが。
広告マンは器用にiPadペンを操作し、スラスラと資料を見せる。そこには赤くマーキングされていたり、メモが書いてある。読みにくいことはない。見返すときにも便利だろうなーと正直におもった。かさばらないし、スマートだとおもう。しかしなんだろうなー、なんか馬鹿正直に肯定も否定もできないのだ。うーむ。
たぶん、パソコンというものが事務用品として普及したころ、「便利だから」という理由で、事務所に置かれ、「パソコンだとお?」と眉をひそめる人たちがいたにちがいない。そんなことが容易に想像できた。
いわゆる便利ツールなるものが普及するとき、対立のようなものがおきる。
「こんなに便利だから使おう勢」vs.「使わない勢」だ。
便利なことは、便利。あたりまえのことだけれど、それを使うと、いい結果が生まれるでしょう。そういう想像と好奇心、旧時代への優越感から、便利ツールを使うのが前者。
後者「使わない勢」がいる。今回、iPadに関してはわたしもこの枠に入るのかもしれない。
なぜ、肯定も否定もせず、「使わない」のだろう。自問ジトーしてみる。
手応え、なんじゃなかろーか。とまずおもった。
企画なんかは、鉛筆や細めのボールペンをごちゃごちゃと書いてゆく。なるべくていねいに書きたいときと、乱雑に書きたいときと、さまざまあるのですが、まあ書く。紙にひっかけるように、字がのびてゆく。
紙は限度があるので、次の紙へ。何枚か書けたら、ひろげて、上からふむふむと眺め、順番を考えたり、削ったりする。これがいい。気がする。
「便利だから」という理由だけでは納得できないのが、肯定できない理由。
「iPadでもそれと同じことができます」と言われるだろうけれど、
逆に、「iPadがなくてもできます」と言えるのではなかろーか。
そんなカタヒジはらんでも…。とじぶんでもおもってきた。カタヒジはってるつもりはないのです。だって否定したいわけじゃないんだもの。
これは、あれか。
お互いが「これはいいものだ」という認識から、iPadやら紙やらを使っているだけなのかもしれない。
かの広告マンは「iPadはいい」とおもって使っている。
私は「紙がいい」とおもって使っている。
それだけなのだ。それだけ。
それで、たまに、「みんながじぶんと同じものを使えばもっといい」とおもっている人がいる。軋轢とやらはここで生じる。
便利というのも価値がある。
それと同じくらい、使う人の手応えなるものは、その人にとって価値があるのかもしれない。
じぶんの目の前の仕事をするプレイヤーは、とりあえずじぶんしかいない。こだわっちゃうのも無理はないのではないでしょーか。