会議が終わり、ふーっとため息をつくときには、参加者はもうほとんど自分のデスクに戻っていた。
何か言いたげな人が、ふくれた顔で自分の資料をまとめて席を立とうとしていた。私はこのあとの仕事の流れをその人と確認したかったので、少し話した。確認したかったことはすべて確認でき、私も会議室を去ろうとしたときだった。
「この会議なんか意味あったんですか?」私はそのあとの言葉を待つ。
「今は密を避けるべきですよ。こんな状況で会議なんてやらないほうがいい」
「でもみんなでいろんなことが確認できたじゃない?意思統一はしておいたほうがいい案件がけっこうあったと思うんだけど」ある程度ポジティブに返す。
「だったらズームでよかったじゃないですか?」
「社内にみんないるんだよ?イスの距離をある程度設けて、机をアルコールで殺菌して、マスクつけて、換気してたのだから、大丈夫だよ。第一、あの部長がズームとかやったら、時間の無駄だよ。話しても切り返しがないと、永遠と喋るよ」
愚痴はぜんぜん聞くのでいいのだけど、なにかモヤモヤしたものが残った。それでも私は大人しく聞き、気が済んだのかすぐその人はデスクに戻ってしまった。
この会議室の殺菌、イスの配置、換気、テーブル拭きまでやったのは私なのだけど、そういうのは考慮にされないのがなんだか悲しい。少し笑う。
意味のない会議とは、どんなことをいうのだろう?趣旨がはっきりしないとか、一人が永遠としゃべっているとか、決めるべきことがはっきりしていないとか、そういうものだろうか?完璧な会議をやったことがありますか?とその疑問をすべてその人にぶつけても可哀想なだけなので、これは黙っておくことにした。
何かを得る、得ようとするのは、なかなか難しいことらしい。
外部の研修でどこもポジティブさを植え付けようとするのは、この「得る」感覚のハードルを下げるためなんだと思ったりした。
会議でうまく立ち回れる人や、開催そのものを仕切る人はそれだけで精一杯のときがあり、会議の中身がからっぽなときがある。
コロナは、多くの不安を煽る。だけど、私たちにできることはなんだろう?
じゃあ、会議をズームでやりましょうって、少しでも言えば良かったのでは?とも思ったが、これも可哀想なので言わなかった。
ともあれ、私は会議を主催する役目ではなかったので、同調して、意味なかったねーと言うのがよかったのかもしれないけど、この会議で得たものはけっこうあったと思ったから、自分の過ごした時間を「無駄」の一言で一蹴されるのは、なんだか気が引けた。効率を考えれば、ズーム会議をやるよりも今回の条件だったら、一番効率的なんじゃないか?とも考えられたからだった。
最短を考えるか、最善を考えるか、最良を考えるか、それは人によって違うから、なんとも言えないけどねー。
無駄だと感じて落胆するのは、申し訳ないけれど、それこそ感情の無駄なんじゃないか、と思った。
少なからず、何かを得て、時間を過ごすべきだと思っているからだ。
会議では気になったことを聞き、確認したいことを言い、相談事も織り交ぜながら、方向性を共有する。たまにはおもしろいことも言い合えればいいよねえ。
「損をした」という気持ちは、騙されたとか、分かり合えなかったとか、つまらないとか、そういうマイナスの感情だよなあと思った。
それよりも、何を得たか、そういうことを考えていきたいなあ。