黙劇プレゼンツ

ちょっぴりをたっぷり。

いつも言葉を探している。〜私が文学フリマに行く理由〜

 

 「セミナーでスピーチを少ししてくれないか」と言われた私は、他に人材がいないことを悟って「はい」と答えた。大学に務める就職支援の職員にむけた、いわゆる企業側の現役からの生の声を聞きたいというものだった。簡単なレジメを作り、セミナーにのぞんだ。大学の就職支援課はのほほんとした、業務範囲として来ただけというメンツであり、真剣に学生をどうしようかという切迫感はまるでなく、実際の学生の不安の声を聞くことはできなかった。

 「自己アピールをさせる前に、優先順位を聞き出せていますか」という私の切り口は、どれだけ刺さったかわからない。企業にはそれなりの成り立ちがあり、社風という独自のものがある。これが合うか合わないか、そういうもので、学生たちは翻弄されるのだが、「働く」というテーマに、自己アピールというのは、いったい何をアピールすればいいのか、その優先順位がはっきりしているのだろうか。企業名、学歴、売り上げ、職場環境、企業を数値化しようと思えば簡単だが、働く側の何を優先するのかというのが決まっているのか、という問いだ。「休みが多い職場がいい」それも素晴らしい優先順位だと思う。「お金がたくさんもらえる」これも素晴らしい。そして、何を優先順位に持ってくるのだろう?

 大学という、本来学問をする場所が、いつからか就職を斡旋する登竜門のような、そういう場所になろうとしている。学生を鍛え、企業のニーズに答え、大学の名をあげる。非常にわかりやすい理屈が、現実と解離していくのを脳裏で感じているのは、私だけじゃないはずだ。

 大学にお世話になった私は、腐っても文学部だった。言葉によって何かをあがくのは、カルマのようなものだと割り切って話を進め、5月中旬には珍しい灼熱の気温の中、セミナーは終わった。たぶん、たんぽぽが綿毛を解き放ったあとの、寂しさを感じつつ、言葉が飛び立ったあとの虚しさを味わった。

 言葉を探す人にとって、文学フリマは生活必需品を買うときのスーパーマーケットであり、生活をつなぐものであると同時に、自分の言葉の綿毛が飛び立つのを見たように、誰かの言葉の綿毛も見たくなっているということなかもしれない。飛び立った綿毛は、どのように、どうやって誰かに届くのか、はたまた自分に届くのかを確認したい。

 いつも言葉を探しているから。