黙劇プレゼンツ

ちょっぴりをたっぷり。

エヴァンゲリオンという映画

 

 みんな、思い出とエヴァンゲリオンをつなげすぎている。

 エヴァとの思い出は居酒屋でやってください。

 映画として、どうなんだ、というところがぜんぜん見えてこない気がする。

 作品がたくさんあって、スピンオフがあって、とても長い時間がかかって、作品と作品の間の時間軸で思ったことをみんな言っている。

 設定の捉え方がぐちゃぐちゃになってしまう。たとえば綾波レイはどういう背景がある登場人物なのかが、これまでの「ご活躍」でもうブレブレ。巨大綾波の気持ち悪さはCGになったことで引き立っていたね、というところが評価点かな。そんなもの。

 

 考察という言葉も、なんだかクサい言葉になってしまった。エヴァについて語る時、それは「エヴァ」との思い出であって、なんら「エヴァ」が迫ってこない。私たちは、その物語の空白に、どんな言葉を差し込むのか、というのが考察だったんじゃなかろーか。その上でエヴァは中身のガッチリ詰まった「作品」だったのではないか。

 

 と思ったところで、私はエヴァの多メディア化に気づく。今更、といった感じだが、商業的な成功のために展開される多くのメディアにエヴァを見つけることが多い。だが、エヴァの商業製品や広告を見たとて、思い出されることだけで、「話題になっている感じ」を味わうだけで終わってしまう。エヴァはこんなカスミ(霞)みたいな味じゃなくて、河川敷で飲むレモンスカッシュみたいに甘くて酸っぱくて、しゅわしゅわしている、すんごい味なんだよ、ベタベタするところまでセットでさ。

 

 映画として、エヴァはどうなんだろう。情報量とシーン展開のえげつなさは、やっぱりエヴァだったと思う。ひとつの銀幕に、無限といわんばかりの情報とシーンとアクションとセリフと音と絵が動いていく。ポテトチップスの1つの袋の中に、のりしおもコンソメうすしおも入っているような、そんなサラダボウルだった。

 

 「エヴァはこういうカメラがおもしろい」っていうのをわかっているから(エヴァっぽいってこういうことだよね的な)、そのシーンがくると「これこれ」って思って満足しちゃうんだけど、それは霞(カスミ)なんだよ。庵野秀明監督がそこに意味を見出してないとしても、映画のシーンとしての意味を感じ取らなきゃ、映画である意味がないじゃない?

 

 あ、もしかして、シン・エヴァンゲリオンって、映画館じゃなくてもよかったんじゃないの?BSかなんかで、ほらあの制作舞台裏みたいなのとおんなじように、テレビでやればよかったんじゃないの?とも思ってみる。

 

 ブラウン管のテレビの前で、冷えた夜にひざを抱えながら体育座りしてた、そういう映像とじぶんたちの思い出が、少しよぎる。