黙劇プレゼンツ

ちょっぴりをたっぷり。

観客の感覚

 

   飲み屋で仕事の話をすると、誰かの愚痴、どこかの部署の対応の悪さが口をついて出てくる。

   ふと視線の端に、疲れたサラリーマンがお酒を飲みながらテレビを見ている。ごにょごにょと口が動くのが見える。ひとり言を言っているのだろう。

 

   仕事は、やっているときにどうするか、というのが大事だと思っている。何をアクションすればいいか、それだけだ、と割り切っているけれど、飲み屋で話すことに、仕事の話は出ても、仕事をしているわけじゃない。

 

   ああ、仕事の話をしていても、カウンターでテレビを見ながらごにょごにょとひとり言を言うあの背中を丸めたサラリーマンと同じなんだろーな、と思う。

 

  観客だなあと自分のことを思う。サワーを何杯飲んだかはもう忘れており、話の端々に出る愚痴の芋づるを、みんなで引っ張りあっている。

 

   大学生のころ、映画を見ていると、どかへ冒険したり、人を殺したり、人を愛したりする気持ちになるだけで、私は映画館のシートに座って、頬杖をしているだけ。

 

   寺山修司は、映画へのアジテーションとして、「高倉健の映画を見て、人をバッサリ切り倒したような感覚を得て満足そうに映画館を出る人たち」を題材にした。煽った。

 

   たしかに観客の感覚は大事だ。俯瞰して物事を捉えられるチャンスでもあるし、考えるきっかけを与えてくる。自分は動かないから体力は消耗しないし、楽でいい。

 

   だけど、それでいいのでしょうか?

   この観客の感覚は、消えそうで消えない。

   観客的な人って、けっこういるよなあ。

 

   けっこう意見が厳しいけど、その意見を実践している人は少ない。体感とか、体験とかが、あんまり伝わってこない。

 

「この傷はあのときのもので…」と体についた傷を自慢する老人がなんだかかっこよく見えちゃうのは、体験を伝えられるからだと思う。

 

   自分で得たもの、触ったものは貴重だよ。

 

   観客の感覚にどっぷり浸かっているときに、そんなことを思った。

 

   酔っぱらっているだけかもしれないけど。