感情的と言葉
村上龍の「音楽の海岸」という小説の中に、こういうフレーズがある。
力を持つのは言葉そのもので、その言葉を発する人間の気持ちなど、何の役にも立たない。
感情的になる人は、たくさんいる。私もその中の一人だとおもう。しかし、仕事において感情的になって訴えられるものは、限りなく少ない。同情が買えればいいけれど、もし同情すら買えなかったとき、どうするのだろう?
そういえば、訴えるという「訴」の部首は「言」。
調べてみると、「斥」は家の中で人間が逆さまになっていること。つまり不当な意味。
「訴」は、「不当な物事へ言葉によって行動すること」になる。
なるほどー。訴えるというのは言葉なのだなーと。
そこでさきほどの村上龍のフレーズを思い出してみる。
どんなに不当であっても、感情的になったところで何も行動とは見られないし、よく脅し文句で「訴えてやる!」というのがあるけれど、これも感情的な、音声のようなコトバなのかもしれない。「役に立たない」のだ。感情の吐露だけでは、同情されればとても美しい効果がある、しかしそれは果たして役に立つカクリツだろうか。
お互いの理解の範囲の言葉を使った方が、感情に訴えるよりマシ。村上龍の言っている斬ったような極論はそういう効率的なもので、なんだか頷けるものがある。
どんなに美しく、また正しく、あるいは面白く華やかなものを思い描いていようと、それを伝える、分からせるとなったら、やはり何かを表さなければいけない。絵であったり、言葉であったり、方法はたくさんある気がする。
「感情をぶつけられた!」と思うときでも、その人がどんな言葉を言っているのかを正確に捉えることが大切な気がした。そしてぶつけられた感情をそのまま感情で返すのではなく、言葉で切り返すのがいいなあとおもった。
他人が見ている状況であれば、感情的になってバリゾーゴン言っている人と、言葉を持って冷静に会話しようとしている人、どちらの言葉に耳を傾けるだろう?見ている人は、私の言葉を見ているとおもう。
感情の乱闘しちゃったら、みっともないもの。