感動するということを、抑え込んできた気がする。
感動するといったときに、まず思うのが外国人によるオーバーなリアクションであり、好きなアーティストバンドのライブでの盛り上がりであったり、受験での合格であったり、自分の中に感動という沸騰を抑えきれないものということ。
嬉しさの尺度にもよるのかもしれない。自分が嬉しいとおもったときの盛り上がりが、感動を産むのかもしれない。または長時間の抑圧から解放されたときの安堵なのかもしれない。
美容院で髪をシャワーしてもらい、ずぶ濡れの醜い子犬のような自分を鏡で見ながら、スタイリストさんと会話をした。ハサミが小刻みに鳴る中、スタイリストさんはふと寄ったとある展示会で1粒500円もするイチゴに「えー」と驚き、食べてみたらただのイチゴの味で、これまた「えー」と落胆したと話をしてくれた。
驚いたり、落胆したり、なんか良いなあとおもった。一喜一憂というか、そういうのを受け止められて、人に話ができるのは、すごいことだ。
おもえば、私は一喜一憂というのが自分でするのが嫌いだった。
事実や意図は自分の感情(一喜一憂)と違うことが多かったし、なにより、感情的なフィルターがかかるのをかなり恐れていた。
感情には過剰に好き/嫌いという尺度が発生して、嫌いと断定したことに対しては、濁った行動しかとれなくなってしまう。ピーマンが嫌いな人がフォークを止めるみたいな。
仕事になってしまうと、自分の好き/嫌いなんて関係ないし、他者の意図に対してどういった解決を提示するか/できるかが重要になってくる。好き/嫌いなんて言ってたら仕事にならない。ピーマンを食えと言われたらピーマンを食わなくちゃいけないのだ。
世の中では、好きを仕事にする、なんていうけれど、それで仕事が嫌いになったらどうするのだろう。好きなんだからそんなことはおかまいなしなのかもしれない。私の僻みなのかもしれない。それだったら落胆してもいいから、好きを仕事にしてみろよ、と自分につっこめる…。ため息。
芸術は爆発だという迷言を残したおじさんがいた。たぶんここで言う芸術は感情という短絡的なものではなくて、自分のテクニカルな部分を含めたものだったと推測する。ともあれ、爆発は発揮するともとれるから、まあ「のびのびやれ」という意味なのだろう。
スタイリストさんみたいに、一喜一憂しながらも、仕事はピシッとやるというスタンスは本当に尊敬する。だらだら仕事をしてミスを連発する私とは大違いだ。
来週こそ、少しピシッとしたい。一喜一憂しながらでもいいから。