黙劇プレゼンツ

ちょっぴりをたっぷり。

自由とセンス

 

 こんばんは。風は冷え込んできて冬を感じつつ。

 

 タイトなビジネスカジュアルの服を脱いで、オーバーサイズのティーシャツとズボンに履き替えたとき、すごく自由を感じた。

 自分の仕事が終わり、職場を少し掃除して、帰宅したのは、9時過ぎ。

 自由だー、と感じるのは、オーバーサイズの服を着た時だった。

 

 自由とはなんなのだろう?

 漢字の字面のビジュアルだけだと、四角いマスに、ちょっぴり上に何かが生えている。

 

 自由を感じるときは、ほかにもある。音楽を聴いているとき、絵を描いているとき、バイクでどこかへ向かっているとき、イタリアンレストランでメニューを見ているとき、美術館でぐちゃぐちゃの絵を見ているとき、寝るとき。

 働くことには、一見すると自由がないように思える。8時間は拘束されて残業なんかもやっちゃって、いわれのないイチャモンをつけられる。なんて不自由。足にくさりが見えそうだ。

 でも、どこで働こうが、どう働こうが、自由。と考えれば、広大な自由が広がっているじゃありませんか。選択は自由だ。選択肢を揃えるのも自由。何も考えないの自由。

 

 さて、よくわからなくなってきたので、お湯をわかし、紅茶を飲む。ずびずび。

 

 自由に耐えられないんだと思う。すべてというすべては、一番最初に自由という状態にある。そこにAとBの選択肢を作り出して、世界を2つにする。そして選択する。しぼる。

 

 たしか、暮らしの手帳の名編集者、松浦弥太郎さんは、センスの本で何を選ぶかでセンスが決まるといっていた気がする。

 選ぶ=センス。それは一番最初に自由の存在を知っているからできることなんだろうな、と今さらながらに思う。センスといえばファッションで、これがかっこいいからこれを着る、というふうに、すでに選択肢ができあがっているけど、最初はなんでもいいはずである。タオル一枚でも身にまとえば、ファッションと言えまいか(銭湯ファッション?)。

 

 絵を描くときに、自由すぎていつもびっくりする。何を描いてもいい。だれに見せるわけでもなく、ただ描けばいい。なんて自由なんだろう。私だって、自由を持っているじゃないか、と思い出す。

 

 よく、自由は求められる。しかし束縛の選択をどこかでしていることも、忘れてはいけないと思う。そして、何で束縛されようかと選んでいくと、けっこう楽しいものではなかろーか。