黙劇プレゼンツ

ちょっぴりをたっぷり。

嬉しさってなんだろう?(買い物から考える嬉しさの原点とは?)

 

 私の好きな作家、村上龍は若い頃、小説を書く中でとあるシーンのアイデアが出たときに飛び上がるほど嬉しくカラオケでビートルズを歌ったことがあった、とインタビューで言っていた。

 読んだ当時、小説家=鬱病みたいな、鬱屈とした職業だと思っていた私にとって、小説家だって喜びはあるんだなあと思った。小説家の喜びは他者から見れば、読んでくれる喜びか、売れる喜びの2つしかないと思っていたからだった。

 逆に悲しみを感じるのは簡単で、傘を持っていないのに雨が降ってきてしまったとか、予期せず仕事で失敗したとか、フルーツグラノーラをこぼしてしまったとか、たくさんあるし、悲しみの限界はないと思える。

 ビジネスカジュアルの仕事着を夏向けに買おうと服屋に行って、サイズを巻定規で見てもらい、数着買う。もったいないような豪華な紙袋を持ちながら喫茶店で休む。服を買う喜びがじわっと出てきた。

 服は体に1番密着している。古代からその服飾に歴史や文化が織り込まれているように、人間にとって重要なツールらしい。何に使うとはいえ、自分に密着してくれるものを買ったのは、充実感がある。

 村上龍のエッセイ「案外、買い物好き」では「なぜ人は買い物を楽しんでしまうのか」という問いがあった気がする。モノを手に入れる楽しさは本当だと思う。ブランドモノをバカバカ買うような買い方ではなくて、自分を鏡で見て似合うか似合わないか、そもそも自分に似合うのは何なのかを考えながら買い物をするのは、ある意味「考えることが好き」なのかもしれない。

 さっき悲しみは限界がない、と書いたけれど、嬉しさにも限界はないんじゃないかと仮定してみる。

 え、悲しさ並みに嬉しさを感じることなんてないんだけど、と思ってしまう。物量としては悲しみの方が多い気がする。なんでだろう…?

 悲しい話と、嬉しい話、どちらをこれまでたくさん聞いてきただろう?これは悲しい話の方がたくさんで、厭世気分を共有することで落ち着ける心理が、自然と悲しい話を取り込んでいたのかもしれない。あと、悲しい話は話題にしやすい。つまり笑い(ネタ)にしやすいから、世の中には飛び交っている気がする。

 たとえば土日が休める、というのは嬉しい話だ。あたたかい珈琲を飲めるのも、12時ギリギリに入った喫茶でモーニングセットを頼めたのも、服屋で親切な応対を受けたのも、嬉しい話だ。

 そんな些細な、と思うことなかれ。悲しみも些細だが、なんとこれが変に尾を引くのは、みんなご存知でしょう。

 まずは嬉しさを見つけることからかな、と喫茶から雨降る窓を見た。