黙劇プレゼンツ

ちょっぴりをたっぷり。

じぶんを守るだけの仕事のやりかたでいいのか。いま、仕事への倦怠感でやられそうなじぶんへ。

 

 入社から何年かすると、ある程度の役職につく。管理される側から管理する側になる。

 がむしゃらにやっていた自分の仕事は、目の前から少し離れたところで動くようになる。

 仕事を管理しているだけで実際に私が仕事に手垢をつけているわけじゃない。もちろん100%ではなく、プレイングマネージャとして自分の仕事を回しながら、他人の仕事も管理するので実感がないわけではない。

 

 しかし何か悲しい。そう思ったのはなぜだろう。

 管理とは、私の考えが浅いかもしれないが、まずリスクヘッジがある。どういうことが起こりうるか、ということを考え、指示し、監督する。

 失敗した場合、第一にリスクヘッジが甘かった、ということになる。見通しとも言う。

 

 このリスクヘッジの甘さに恐れを抱きながら仕事をするようになる。

 失敗は必然的に減り、より自分のまわりの仕事が《完璧》になっていく。

 そうすると、その《完璧》に抵触するちょっとの失敗さえも、許せなくなっていく。ここで言う許せないという感情を持つのは、顧客であったり、チームメンバーであったり、自分自身であったりする。

 

 ビジネスでは「腐ったケーキ」という考え方がある。ケーキの1%でも腐ると、商品として成り立たないというものだ。確かにケーキでは取り返しがつかないが、仕事ではある程度取り返しができるものもある。それなのに、《完璧》を求めて、それが達成できないと、落胆する。

 

 リスクを恐れて行動するのは、当たり前かもしれない。危険性を回避するのは生物としてやるべきことだし、死ぬかもしれないという緊迫感がある。しかし、普通のデスクワークで死ぬことはない。頭を下げておわり。当たり前のように次の日が来て、また笑顔で接客する日々である。そこで世界が終わらないのは、日常の残酷さだと思う。

 

 私の同僚は仕事がきつくて辞めた。ある日、9時過ぎのだれもいない事務所でとなりのデスクから嗚咽が聞こえた。見ると泣いていた。慰めるつもりで、明日に回そう、とりあえず今日は帰ろう、明日もあるのだから、と言ったのだが、それはその同僚にとって残酷な事実だったのかもしれない。

 

「何も起こらない」時代、ロマンスの欠乏。それはいわば、あす何が起こるかを知ってしまった人たちの絶望を意味している。

───寺山修司「書を捨てよ、町へ出よう」第4章 不良少年入門

 

 人生にとって、仕事という範疇が大きすぎる。40年という時が、その仕事によって左右される。学生時代、働くことに恐れを抱くことはなかった。仕事という膨大に消費される時間に恐れていた。

 

 正直、つまらない。日々が。また明日が来るという事実に耐えられる人だけがこの日常とやらを過ごせるのだと思う。

 

 このままだと、今の仕事に「やられる」ぞ、という危機感を抱く。固定化された仕事という型に感情を奪われている。

 

 

不安は感情的にリラックスできず想像力をコントロールできないときに発生する。不安から逃れるには何かに集中するしかない。

───村上龍ストレンジ・デイズ」 

 

 何かに集中する。仕事に?趣味に?目の前に広がる時間軸に「やられ」そうになる。

 

私たちの時代の共通点は、「主体的に生きられるようになる」以前の自分をいじくりまわした事物への逆襲ということにあるのではないだろうか。

───寺山修司「地球をしばらく止めてくれ ぼくはゆっくり映画を観たい」

 

 仕事に逆襲してやろう。

 逆襲するつもりで集中するんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なりふりかまってられない、そんな状況に憧れているだけの自分の頰を叩くように。