黙劇プレゼンツ

ちょっぴりをたっぷり。

なぜ本を読むの?最近読んでいる本と、ホン音

 

 みなさんは本、読んでますか。

 今読んでいる本は、村上龍の「希望の国エクソダス」(文藝春秋文庫 2002)くらいで、あとは片手で数えるほどしかない。かといって積読本がたくさんあって悩んでいるわけでもなく、なんとなく手にとって、少し読んでやめる、というのを繰り返している。

 あれだけ時間のあったゴールデンウィークはほとんど読書をしていない。本を開くということすらしていない。この読書への倦怠感はなんなんだろう?

 そもそもなんで自分が本を読むのか、少し考えてみました。

 

 読書に何を期待していますか。

 読書に期待するものは、エキサイティングな描写とか、かっこいいフレーズだとか、作家の頭の中を邪推するワイドショー的な快感なんだろうか?売れているから?みんな読んでいるから?

 思い出してみると、高校生のころ、受験勉強に必死になることが美徳の状況で、受験勉強の合間に読む本が悪いことをしているようでかなり心地よかった。大学生のころも、レポートに手をつけないで読む本が、かなりおもしろかったように感じた。

 社会人になってみると、まず、疲労感がある。体力はまだあるはずなのに、精神面が削られて、帰宅しても、脳や目を使う気にならない。あと、学生時代にあった罪悪感みたいなものがなくなった。社会人で本を読んでいると偉いね、とか言われて拍子抜けしてしまう。

 本が好き、なんて言う人と会うと、私の読書遍歴からすると、純粋に読書を楽しんでいる人が多い。今売れている本を片っ端から読んでいる人のことを、読書家と言うんだろうなあ、なんて思ったりもした。ひねくれているというのではなく、単に自分が浅く感じただけだった。

 

村上龍の小説をなんで読んじゃうんだろう?

 村上龍の小説は、情報と行動、シンプルに描かれる暴力描写、もちろんエキサイトできる小説。文章は淡々としていて、だいたい今の社会が描かれている。だからなのか、読んでいると滅入る。大体の作品はぶ厚いページ数で、読み終わったあとの読後感は最高なのだけど、それまではなかなか体力がいる。

 それでもなぜか読んでしまうのは、行動の描写なんだと思う。すごく、淡々と描写がされ、情報がたくさんで、まるで小説のなかで生きているみたいな、そんな息苦しさを体感できると同時に、暴力が行動から生じる開放感が素晴らしい。

 主人公や登場人物が「思い悩む」というより「動き回る」という感じ。

 

本当にエンターテイメントだけを目的に読書しているの?

 快感を得ようと思えば、読書なんて湿ったことをしないで、誰かとお酒を飲んで話すとか、映画を見るとか、旅行に行くとか、おいしいものを食べるとか、いっぱいある。

 もちろん人によっては読書が最高のエンターテイメントだと言う人もいるでしょう。

 私は何かを得たいという意識から、読書をしているかもしれない。そのテキストの羅列と文章の意味から、登場人物の「動き回る」ところから、何かを得たい・・・?

 

なぜ読書をするの?

 村上龍のとあるインタビュー記事(なにかのあとがきだっかな)で、「陰鬱さに共感されるものより、何かを突破しようとするエネルギーみたいなものを描きたい」と言っていた。

 私はたぶん、その何かを「突破」するエネルギーや心情を得たい、もしくは見たいのかもしれない。

 正直、本なんて読まなくても生きていける。流行りの映画を見て、おいしいもの食べて、働いて、寝ていれば、人生は終わっていくし、本を読んでいなかったとしても誰に怒られるわけでも、悲しい人生が約束されるわけでもない。

 でも、音楽も聞かず、薄暗い部屋でページをめくって、いろいろ考えたり、何かを得たりするのは、それはそれで、静かで、けっこう良い時間だと思う。精神的に無理なときはあるけど、読書することを捨てるのはもったいないし、そういう時間を持たないだけ、自分がバージョンアップされない気もする。

 あと、キッツいなーってときに、言葉や物語が助けてくれるときってありますよね。