会社の人と会食した。
ご夫婦と、その知人と、私である。
飯を食べよう、というちょっとした理由。
ひょんなつながりで、じゃあ私も、ということで4人で食事をした。
ご夫婦は仲がいい。 冗談を言う、決めセリフを言う、ツッコミが入る、性格の話をする、
こんな面白いことがあった、こんな人がいた、
それだけでなんとなく笑ってしまう。
輪のようなものの中に自分がいる感じがした。 他愛もない話をした、と表現するのだろうが、この表現は少し残酷な気がする。
他愛もないわけないんだ。愛があるからこういう、じゃれた会話ができるのだろうな、と思った。そんなことに感動している自分が不思議に思えた。
明るくしなくちゃいけない、暗い性格だからしょうがない、
そう、ひねくれてしまう自分がけっこうな割合でいるのだけど、それでも話を聞いてくれる人がいて、それに対して言葉を返す自分がいて、 思ったことを言う。
何それ、と言われても、何よ、と返せる自分がいるか、ということだ。
思ったことを言うことを、なんでためらっていたのだろう?
確かに、空気を読めていないのはダメだ、それはわかる。
しかし、ここで言おうと思って言ったことが、 和やかな会話の中で受け入れられ、混ざっていく。
上とか下とか、得たいとか分かられたくないとか、そういうのは野暮で、フラットにどう話せるか。
フラットに会話、できていますか。
自分の後ろめたさで、喋れていないときがありませんか。
と、自戒するのだった。