考えてみると、世の中はだれかの解説だらけだ。
思えばかならず誰かの解説が、頭をかすめる。
映画だって、テレビ番組だって、スポーツだって、だれかの解説が、じぶんのなかの根拠になって、頭のなかでなんか言ってるのだ。
言葉が生きているなんて、信じない人が多いけど、だれかの言葉はなくても、だれかの解説なら記憶にあるんじゃないだろうか。憎きも嬉しも煩きも。
解説には、言われていることに対して「どれどれ?」とのぞきこむことが、なんだか大切な気がする。人が言っているのを信じるのには、じぶんの思う「どれどれ?」という検証が必須となる。
検証してみて、
「なんだそんなもんか」とか
「こんなすごいものが」とかいろいろあるだろうけど、ハナシはそこからなのだ。
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ハナシ。これは小説にも言える。
解説から本を読みだすのも、けっこうおもしろいとおもう。そんなことを思ったので、今回、公開前に数人に読んでもらい、解説を書いてもらった。
いきなり奥付を開いて出版社がどうとか、初版かどうかとかを確認するよりは、すくなくとも野暮じゃない。
それに、解説は、当たり前なことを言うけれど、自分の心情を解説してくれるときがある。それは景色の一部かもしれないし、セリフかもしれない。解説というのも、ひとつの作品であり、ただのカンソーではない。「どれどれ?」という心情への好奇心と、自分との体験が交差して、絶妙なソースとなって、文字に起こされる。発見は喜びになる。
書いていただいた解説はどれも絶妙なソースになっている。小説を読んでみたいと思うし、実際、解説をひとつもらったら、もう一回自分の小説を読み返した。なので少なくとも五回は読み返した。自分で書いているのにも関わらず、解説の絶妙なソースをかけて、もう一回味わいたいと思ったからだった。
今回、ツイッターのフォロワーさま数名が、わたしの小説を読んで、1,000字という矮小な鉄格子に文字をおさめた。これは、嬉しい限りで、しかもお願いして渋々ではなく、手を挙げていただき、その鉄筆を奮っていただいた。とにもかくにも、ありがとうございます。
なお、五回にわたって掲載した解説ページの本文は、できるだけ簡潔にし、無駄な装飾などはいれませんでした。文字だけをみなさんに読んでもらえれば、それだけでいいと思ったからです。
解説を書いていただいた方の文章作品、次があれば別の機会でもまた読ませてください。
それでは、解説依頼の背景でございました。