黙劇プレゼンツ

ちょっぴりをたっぷり。

解説依頼の背景。「缶をあけるとき」

 

 

 考えてみると、世の中はだれかの解説だらけだ。

 思えばかならず誰かの解説が、頭をかすめる。

 映画だって、テレビ番組だって、スポーツだって、だれかの解説が、じぶんのなかの根拠になって、頭のなかでなんか言ってるのだ。

 言葉が生きているなんて、信じない人が多いけど、だれかの言葉はなくても、だれかの解説なら記憶にあるんじゃないだろうか。憎きも嬉しも煩きも。

 解説には、言われていることに対して「どれどれ?」とのぞきこむことが、なんだか大切な気がする。人が言っているのを信じるのには、じぶんの思う「どれどれ?」という検証が必須となる。

 検証してみて、

「なんだそんなもんか」とか

「こんなすごいものが」とかいろいろあるだろうけど、ハナシはそこからなのだ。

 

◼️

 

 ハナシ。これは小説にも言える。

 解説から本を読みだすのも、けっこうおもしろいとおもう。そんなことを思ったので、今回、公開前に数人に読んでもらい、解説を書いてもらった。

 いきなり奥付を開いて出版社がどうとか、初版かどうかとかを確認するよりは、すくなくとも野暮じゃない。

   それに、解説は、当たり前なことを言うけれど、自分の心情を解説してくれるときがある。それは景色の一部かもしれないし、セリフかもしれない。解説というのも、ひとつの作品であり、ただのカンソーではない。「どれどれ?」という心情への好奇心と、自分との体験が交差して、絶妙なソースとなって、文字に起こされる。発見は喜びになる。

 

   書いていただいた解説はどれも絶妙なソースになっている。小説を読んでみたいと思うし、実際、解説をひとつもらったら、もう一回自分の小説を読み返した。なので少なくとも五回は読み返した。自分で書いているのにも関わらず、解説の絶妙なソースをかけて、もう一回味わいたいと思ったからだった。

 

 今回、ツイッターのフォロワーさま数名が、わたしの小説を読んで、1,000字という矮小な鉄格子に文字をおさめた。これは、嬉しい限りで、しかもお願いして渋々ではなく、手を挙げていただき、その鉄筆を奮っていただいた。とにもかくにも、ありがとうございます。

 

なお、五回にわたって掲載した解説ページの本文は、できるだけ簡潔にし、無駄な装飾などはいれませんでした。文字だけをみなさんに読んでもらえれば、それだけでいいと思ったからです。

 

解説を書いていただいた方の文章作品、次があれば別の機会でもまた読ませてください。

 

それでは、解説依頼の背景でございました。