黙劇プレゼンツ

ちょっぴりをたっぷり。

にごる空気のなかで・七月なつき 解説「缶をあけるとき」

 

 

 黙劇氏は残念なことに、やさしいひとのようだ。

 氏がそれを自分のこととして書いているかはわからないが、どの場面からも心もとなく、くたびれた匂いがする。

 シャチは息のできる場所を探そうとしていて、ラクダは作ろうとしている。ふたりは不平を言っても否定はしない。価値観がいたるところで登場するけど、それらをぶつけて勝ち負けをつけない。追いやられる少数派の息苦しさを書いているのに追いやる多数派を否定しない。ややこしいポリシーはあるものの絶対的な正しさはない。作中にたとえ犯罪者がいても悪者はいない。価値観はそこにあるだけで、読者に向けた問いかけも結論もない。

 あいまいでつかみどころがない。あれもないこれもないと、悪く言っているように聞こえるかもしれないがそういうわけでもない。わたしたちはいつも分かりやすくつかみどころのある部分ばかりみる。そうでないところは見向きしない。

 氏の書きたいことをはっきりとはわからないけど、わたしたちがふだん見落としたり見逃したり見過ごしたりする部分が描かれていて、それがわたしには嬉しかった。あるものを肯定するために別のものを否定するとき、否定する側もされる側も、何かを失っていく。わたしたちの価値観は増えていくばかりなのに、一緒になにかを失っているばかりなようにも感じられる。その見向きもされないまま失われていく何かを拾い集めることが、わたしにはやさしくみえる。

 くたびれてしまって冷めた目線をしているのによくそれが続けられているなあ、すうすう呼吸できて元気でいるならまだしも、というのが冒頭にある一言の意味である。まあ、元気なひとでそういった疲れるやさしさを持っているのは知らないのだけど。

 シャチとラクダは気だるげにもがいている。そこらじゅうがもやもやしていて、わかりやすい出口はいまだ見つからず、息継ぎはたまにしかできていない。

 彼女らのもとめるそれが見つからずとも、とりあえずあすに吹く風がふたりへ新鮮な空気を送ってくれますように。

 

  (七月なつき)