黙劇プレゼンツ

ちょっぴりをたっぷり。

合わせつづけた鏡にうつるものたち・四流色夜空 解説「缶をあけるとき」

 

 二枚の大きな鏡を近い距離で向かい合わせ、その中から覗きこむと、鏡の中に直線の方向に無限に延長されていく空間が発生しており、そのただ中に突っ立つ自分を基点に、自分自身も次々と増殖しているのが分かるだろう。鏡合わせのその空間は物理的空間ではないにしろ、ある種の延長された空間を意味しているには違いない。そして前向きの自分と後ろ姿の自分が対になって、前方と後方に連なっていく。どちらも奥の方は光が減退して薄暗い。

 周囲を拒絶する自己をそなえている人間というのは、多かれ少なかれ合わせ鏡によって生じた空間に生きているものである。

 前も後ろも自分の鏡像が占めている空間を、自らの鼓動の音を聞きながら歩いていく。もはや実際に流れる時間は関係がない。一歩踏み出すごとに、合わせ鏡の世界は奥行きを深くする。果てまで行こうとすれば、余計に果てがなくなる。自分が動けば周りの鏡像も動くことになり、自我と鏡像の境界線が溶けていく。過去の自分と未来の自分を取り込むことによって、物理的時間ではない内的な時間が経験される。静かな日々の階段をのぼっていく。それはペンローズの階段だ。傍目には変化がないが、他人の眼などどうでもいい。

 ふとしたきっかけで、ほかの合わせ鏡の直線が横切るときがある。直線に直線が交差する。自分の鏡像に他人の鏡像が混ざりこむ。運が良ければ、孤独なもの同士の交遊がそこで生まれる場合がある。シャチの挟まれている二枚の鏡と、ラクダが挟まれた二枚の鏡は違うものだ。大きさもデザインも質感も異なる。そこから導き出される合わせ鏡の空間は、だから溶けあわない。シャチとラクダは同じではないからだ。

 だからこそ、孤独な者同士の内的な直線距離の交錯は、危険な要素をも充分孕んでいる。運が良ければ、と言ったのはそのことだ。結果としては、ラクダとシャチの交遊は長閑で微笑ましいものであった。だが、それは放火犯とシャチの父親との関係のように陰惨なものに転化する可能性を常にひそませている。

 

 シャチとラクダとの関係は、ためらうことなく、むしろあっけらかんとして缶を開けてしまうものだったのではないか。いつか飲み干された空き缶が投げ捨てられる。砂漠の上に。合わせ鏡の折り重なった茫漠たる陽炎の上に。

 その空き缶は二人のためのひとつの足跡となるだろう。二人の歩んできた過去や来たるべき未来の、見分けのつかない空間におけるひとつの目印になるに違いない。そういったことごとが、些細な日常の積み重ねが、彼女らの存在を高めていくのを、いま生きている彼女たちはおそらく知らない。

 

 

(四流色夜空)