同窓会で話すことと言えば、今何をしているか、何をしてきたか、そして、何をしていこうか、ということである。
こんな私にも同窓がいて、たまに集まれるのはとても幸せなことだと思いながら、同窓の話を聞いていた。
ひとりひとり、じぶんのことを話す。私も、ひと通り話したあと、「ほそぼそと暮らしています」と言った。
貧乏くさく、それでいて卑屈な印象を持たれかもしれないが、私はそんなつもり、一切ない。現に、ほそぼそと暮らしているのだから、嘘じゃない。
なんで、そんな言葉が出てきたのかわからないが、あとで考えてみて「ほそぼそと暮らしています」という言葉は、良いな、とおもった。
まるで仙人のような感じもして、素朴で良い。華やかでも豊かでもない。暮らしている。「ほそぼそと」は他人と比べて…という謙遜の意味もあるけれど、暮らしていける最低限の豊かさを持っていることでもある。
世の中では出世とか、成功とか、結婚とか、そういうものが華やかなものだ。それらは、いずれできればいいことだし、できなくてもいい。ほそぼそとやっていければ。
「暮らしています」というも良い。生活は誰にも見られることはないが、「暮らしている」のひと言で「生きている」ことを意味する。生きていけているのだから、申し分ないはずだ。
思えば、人生での価値というか、ステータスというか、じぶんよりもないものや、ことがらを他人に求めがちな気がする。私もたまに、自動車の免許を持っていない人に「なんで」と言ってしまうことがある。暮らしていけているのなら、車の免許なんていらないことをあらためて思う。
ニュアンスは違えど、魔女の宅急便のキャッチコピーは「おちこんだりもしたけれど、わたしは元気です。」だった。元気だから、良いのだ。それに対して、「いや、本当はそんなことないでしょ」なんていうのはヤボだ。
「生活が苦しい」と言う人はたくさんいる。でも少し、たとえば、「生活が苦しい」と言う人が、なにか身の丈にあわないことを他人から言われたことでやっているなら、それはとても不幸なことだ。「不幸は社会的だが、幸福は個人的である」と寺山修司は言っていた。
自分の人生を考えたときに「これでいいのか」と悩んだとき、他人の言葉がピンボールのように跳ね返り続けているときがある。せめて、自分の言葉で悩みたいものだ。