黙劇プレゼンツ

ちょっぴりをたっぷり。

「本物」のとなりに置かれるオマージュへの同情

 

 横浜美術館で「モネ」の展示会が開かれている。仕事柄、関係しているのかしてないのかよくわからないほどの外野の範囲で関係していることもあって、観覧することができた。けっして、仕事をサボるためではなく…。

 

 エントランスには、人がすごい。平日なのに、と思ったが、当日は世間的にお盆休みだった。まわりが休みだと、ちょっとヘトヘトした気分になるのは私だけじゃないはず…。少しでも心の余裕を作ろうとおもって、展示を見にいった。しかし、人の多さの極みは、モネの絵の前だった。

 

 絵の前で鑑賞する人の滞在時間が長いこと長いこと。絵をどれだけの時間見ようと、美術館の開館時間内であれば自由だ。しかし混雑は増し、人は次から次に入ってくる。さらに、解説の聞けるイヤホンとレコーダーが販売されている。指定の絵の前で番号が一致するとその解説が聞けるものだ。絵の背景や見どころが聞けるのは魅力的だ。しかしまあ、絵の前から人は動かない。上野動物園でパンダを見るように、係員が誘導して「止まらないでくださーい」なんて、自由を主題とする美術館ではナンセンスだが、展示されている絵を自由に見れないというのもその自由とやらとは、少し矛盾している気がした。

 

 肝心のモネの絵は、とても綺麗だった。「睡蓮」はもちろん、「霧の中の太陽」なんかはぼんやりとのぼる太陽のオレンジが、無邪気で良い。奥に見える工場地帯が陰鬱とさせるのもロンドンの感じがして(残念ながらロンドンには行ったことがないから完全にイメージ)、陰鬱さに混じる街の明るい部分が描写されている。

 

 展示の構成は、モネの「本物」と、モネ以後のオマージュ作品が織り合わさって展示されている。つまり、モネの絵があったあとに、となりにはモネの絵ではない、オマージュ作品がとなりに展示されている。ほほう、こうやって継承されているのか、と特徴の引き継ぎがちゃんとわかるようになっている。

 

 しかし、おもうのである。「モネのオマージュ」としてとなりに展示される作品の作家の気持ちはどうなのだろう、と。そりゃ、印象派の巨匠のとなりに展示されるなんて、光栄極まりないと思うだろうけど、でも「オマージュ」で片付けられる現代作家の気持ちは複雑なのでは?とおもった。

 

 観客が、このモネ以後の100年という美術史的観点でもって展示を観ていたのかといえば、疑問が残る。厳密な作品それぞれの前で観覧した時間を計測しているわけじゃないから、推測の範囲をこえないが、観客が多く観ていたのは、モネの本物の絵だった。観客は「モネ、それからの100年」という通史を見に来たのではなく、モネの本物の絵を見に来たのだった。

 

 まあ「モネ」って展示テーマに掲げてりゃ、「モネ」が目的になっちゃいますわな。

 

 展示の終盤、グラフィックの天才アンディ・ウォーホルの「花」がでっかく展示されてた。ほとんど見てる人はいなかった。グラフィックへのつながりを見せたかったようだったけれど、観客の視点はモネの「本物」へと注がれてしまった。ウォーホルの「花」は確かに花を抽象的に、ビビットに描いている作品で印象派の系譜があるのだけど、ポップアートの「偽物感」がすごくて、そこにあること自体が、なんだか、いびつだった。ウォーホルが生きていたら、こんな展示のされかたは拒んだだろうなあとおもった。図録にはモネへ言及している作家のコメントがあるのだけど、ウォーホルの言葉は一切引用されていない。すべての現代作家のコメントは、モネ・リスペクトに終始されている。

 

 オマージュやパロディは決してバラさずに、隠しておいて、見た人が「これってモネの…!まさか」と気づく方が発見的でおもしろいんじゃなかろーか。

 

 ただ今回の展示はモネ(目玉)から現代作家の作品へ一度目を泳がせることによって再びモネへ回帰させるという、現代作家をダシに使うような展示構成のような気もするのだ。

 私の見方がひねくれすぎかもしれない…。

 

 図録巻頭にはモネの作業場の写真がある。そこでモネは作業台のそばで立ち、煙草をふかしてカメラをにらんでいた。