黙劇プレゼンツ

ちょっぴりをたっぷり。

やめるということ

   あなたは今までの人生のなかで、何を、どうやめてきただろうか?

   わたしはこの人生のなかで「やめる」という意識を持ってこなかった。高校ではじめた剣道だって、5年くらいはもう稽古していない。今防具をつけろ言われたらつけられるし、やろうとおもえばいつでもできるんだ、という自負はずっともっている。

  会社を帰る途中、外でタバコをふかしながらたむろう人たちがいた。

   わたしは、誰かと「たむろう」ということをやめた。その人が嫌いになったというわけではないし、人間関係に嫌気がさしているわけでもない。飲み会で徹夜することだってあるし。人といることはそんなに嫌じゃない。ただ、「たむろう」ことをやめた。

   「たむろう」ことは、なにも目的なく、そこに居続けることだとおもってる。わたしはなんだかそういう、居続ける状態で他人といることに、少し違和感を感じたのだった。うぬぼれているわけでなく、ただ、居続けるよりも、なにかしらしていたいという気持ちが働いてしまう。

    やめることには、2種類あるとおもう。ひとつはやめたことに対するポジティブな感想をもっている場合。たとえば、冒頭の剣道の話じゃないけれど、諦めがついていない「やめても、まだ…」という、エネルギッシュな「やめる」。

   そしてもうひとつは、悔いだけが残っている「やめる」。もっとああすればよかったけど、もうこんな状況だし…と諦めのある、かろうじて惰性のある「やめる」。

   わたしは自分の「やめる」をもう1度考えたいなあとおもった。

   やめるにも種類があるよね、というハナシでした。

    あと、はじめることが多いからって、やめることが多くなるなんて、そんなことはないんじゃないかなあっておもったり。

    やめるならやめるで、ふんぎりのついた「やめる」をしたい。