しばしば自分自身が劇的な、とある物語というレールに乗っているとおもいがちだけれど、そんなことはないのかもしれない。
物語を必要だとおもうのは、劇的でない空間に耐えられないからなんじゃなかろーかと、ぼんやりおもう。
わたしが小説を読んだり映画を観たりするときにおもうのは、過去の自分に対しての圧倒的な逃避で、目に入れる風景を閉じたいというものだ。目の前をせいいっぱい制限して、脳の回転を止める。ストップする。
よく、ヒロイックに自分を演じるときがある。演じる、とまでいかなくても、自分のやばい状況の俯瞰から、雪を降らせて、マッチの売れないかわいそうな少女のような、そういう自分を見てしまう。
しかしそれはちんぷなヒロイックさで、三谷幸喜の脚本みたいな嘘くささをどこかで持っている。雪なんか降っちゃいない。小麦粉か石灰。自分でぱらぱらやってるだけだ。自分にたいして、なんだか嘘くさいのだ。
病気というまでもなくても、より多くのエピソードを語る躁鬱病の人はネット上にたくさんいて、そのエピソードを聞くと、ほんとうにすごいとおもう。自分がそのエピソードのように振る舞えるか、と問えば、できないな、とおもう。
健康だったらそれでいいじゃない、という反論というか、うらめしやといった感じを持たれるけど、健康な人間だって、不安定極まりない。いつ気がどっかに行っちゃうかわからないもの。
比類なき平凡を誰もが持っている。病気であることが平凡なのか、健康で文化的な最低限度の生活をしている人が平凡なのか、明確にはわからないけれども、平凡さというのを必ず持っている気がする。歯を磨いているときに鏡に映る自分の表情を平凡だとおもうとか、信号待ちをしているときに横断歩道のしましまを見て平凡だとおもうのかわからない。
たとえば何かがあって、ジブリのアニメーションに出てくる人物の髪がぞわっと立つような、そういうことは、感情としてあるだけで、気がつけばお皿を洗っていたり、野菜の値段を気にしたり、電車に揺られている風景に飲み込まれていく。
「あしたも仕事だ」なんていうセリフは平凡の最たるものだよね。
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平凡と劇的を分けるものは、速度だとおもう。
劇的なものは、めちゃくちゃ速度がある。変化する。動く。絶えたり生まれたりする。
平凡はずっと見ていても動かない。遅い。
そして自分が感じる今の時間は、遅い。なにもやってこないし、なにかが失われるわけでもない。この平凡なる時間軸に耐えられないからこそ、劇的なものを求めるのかもしれない。
日進月歩だなんて言うけれど、陽が昇るまでなんて、12時間もあるもんね。
劇的な時間軸って、いいなー。