こどもを見ているとはらはらする。
何をしでかすかわからない。ケガをするかもしれない。ケンカをしだすかもしれない。
ボランティアで保育園のお祭りに行った。園児たちはもちろん、小学生になった卒園児たちも走り回る。屋台が出て、焼き鳥を焼くけむりが立ち上っていた。関係者で保育園は埋まった。
こどものワークショップを見守る係になった私は、こどもをずっと見ていた。犯罪的な意味ではなく、仕事である。
こどもは走る、転がる、泣く、あれがないこれがやりたいとせがむ。こどもたちの年齢は4、5歳。協調性を強制される前の、もっとも多感な時期と言われる年齢。とにかくぎゃーぎゃー言ってたり、親を忘れてワークショップに取り組んでいた。
こどもの集中力はすごいな、と思った。クレヨンを握りしめ、塗り絵と対峙し目をまん丸にして色を押し付けていく。連れてきている親は他の親と話をしていた。あれが大変よねー、と育児の大変さを同意し合う。
時間となって、親が帰るよーとこどもの手を引っ張った。こどもはまだ描きたいと言う。じゃあ先に帰るねと親は立ち去ろうとする。こどもは少し考えてからクレヨンを放って親の太ももに抱きつき、帰路に至る。私がまたねーと言うとこどもは手を振って帰った。
私もああいう時期があったんだなーと人並みなことを思う。そう考えると、いつ私はこどもを卒業してしまったのだろーか、とこどもと大人の線引きを考えてみる。
屋台ではクレープが売ってあった。しかし持ちあわせのなかった私は、安いフランクフルトをかじることとなった。
諦めて妥協していくと大人になる。とよく言われるけれど、そうじゃないのかもしれない。
せがむ相手がいなくなると、大人になるのではないだろーか。
だから実家に帰って、親にごはんは?と言われ「なんでもいいー」とせがむとき、私はこどもに戻るのである。